Countrygentlemanとは
October 12, 2017 | Country Gentleman

カントリージェントルマン。直訳すれば”田舎紳士”であるその言葉があることを知ったのは、自分が憧れる人物、白州次郎に関する本からだった。
彼の生き方に憧れ、感銘を受け、とても自分勝手ながら、その言葉を自分のブランド名にさせてもらうことにした。
長い時を経て受け継がれてきたヴィンテージ素材をリメイクし、ヴィンテージアクセサリーとして新しい命を吹き込んでいるブランド、カントリージェントルマン 。
ではなぜ、自分はカントリージェントルマンをブランド名としたのか、そしてそもそもカントリージェントルマンとは一体何なのか。
憧れの人物、白洲次郎の生きてきた道のりを辿りながら、お話しさせて頂きたいと思う。
白洲次郎との出会い

白州次郎といえば、「日本で始めてジーパンを履いた人」ということで知っている人もいるかもしれない。しかし彼をそんな簡単な情報で知り終えてもらいたくはない。
まずは簡単にだが彼の経歴をまとめていきたい。
1902年2月17日実業家で富裕であった父の次男として生まれ、イギリスのケンブリッジに留学。流暢な英語と、国際的な広い視野を育み、父の会社が倒産したために帰国。
そこで生涯の伴侶となる樺山正子と出会い、結婚する。
その後新聞会社などで勤めたのち徐々に日本の政治に携わるようになる。のちに敗戦国となる日本を連合国軍の暴挙から守り抜くべく、苦楽を共にしていく吉田茂とはこの時に出会っている。
第二次世界大戦が始まる際には、その先見の明により東京は焼け野原になると予見、鶴川村(現在の東京都町田市)の古民家を買い取り改築しながら食料の生産に精を出した。
(ちなみにこの古民家が武蔵国と相模国の間にあったため、自分の性格も絡めた『武相荘(無愛想)』と名付けた。)
(そんなユーモアがあふれるところも、自分が惹かれる要因の一つだった。)
第二次世界大戦後、日本は連合国軍に占領されることになる。
そこで白州次郎は吉田茂に頼みこまれ、GHQとの折衝を行う終戦連絡中央事務局で参与に就任することになる。白州はここで英国仕込みの流暢な英語と、類まれな視野をもとに八面六臂の活躍を見せ、日本立て直しの一番の功労者となった。しかし自分は表舞台に立つことを良しとせず、その役割はもっぱら吉田茂であった。
(出しゃばらないがやることはやる、というこの姿勢も尊敬するところの一つである。)
その後貿易庁の長官や東北電力の会長など要職を歴任し、日本の近代化に大きく貢献した。
ものすごく端折ったが、だいたいはこんなところであっているかと思う。(間違っていたらゴメンなさい)
彼はとにかく爽やかな男であった。(らしい)
自分の目上のものにはとにかく厳しく、目下と思われる人にはとにかく優しく接した。プリンシプル(物事の原理・原則。今で言えば物事の筋)を重んじ、それにそぐわない場合にはどんな立場の人間でも厳しく批判し、これを正した。
またいくら重要な役職に就こうとも、自分が果たすべき役目を終えたと見るやあっさりとその職を辞し、田舎へ帰っていくというのが常であったらしい。
こんな格好のいい男になりたい、と素直に思った。
そして勝手ではあるが、田舎に定住しながらも少し離れたその場所で都会の動きをじっと見つめ、自分の役目ができたと見ればさっと駆けて行き問題を解決する。
つまりは最前線から目をそらさず、全体を俯瞰する冷静さを失わずに来るべき時が来れば臆することなく、自分の全力を尽くす。そんなスタンスで生きていきたいと、思うようになった。
そんな生き方をCountry gentleman(カントリージェントルマン)と呼ぶことを知り、自分のブランドのコンセプトとし、またその生き方の実現を自分の人生の目標としていこうと思った。
※ここからは、あくまで私の独り言として流していただければありがたいが、一部の人は「白洲次郎は戦争が始まってから徴兵を逃れている。それでは紳士とは呼べない。」という意見をお持ちの方もいる。
確かにイギリスなどでは、貴族も身分に関係なく徴兵に参加しており、その観点からお話をしているものと思う。
けれど、私にはその意見を聞いた瞬間に頭をよぎった言葉があった。明治維新の偉人吉田松陰の言葉である。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」
つまりは「死んでも名が残る見込みがあるならば、いつでも死んでいい。しかし生きることで大事を成す見込みがあれば、いつまでも生きればいい」という意味である。
白洲次郎は「戦争に参加したから紳士であり、戦争に参加しなかったから紳士ではない」というくだらない価値観には目もくれず、
焼け野原と化した日本を立て直すために、自分に何ができるのかという”その先”を高所に立って眺め、考え、そして実行した本物の紳士であったと私は思う。
(そもそも白洲次郎は戦争前から戦争には反対しており、むしろ「開戦すれば日本は必ず負ける」ともいうほど、反戦派だった。)
消費するだけの人生でなく、何かを生み出す人生を送りたい。

10年ほど、都会(東京)に住んでいたことがある。
最初はとにかく遊ぶ場所が多くおしゃれな服屋さんやお店、クラブなどがたくさんあったので、とにかく遊んだ。楽しいと思っていた。
何年も遊びに遊んで、徐々に気づき始めてきたのが自分は「消費しているだけ」の生活を送っている、ということだった。
働いてお金を稼いで消費する。
経済活動としてはごく普通のことで、それはそれで正しいと思う。ただ自分としてはだんだんその消費するだけの生活が苦しく、つまらなく思えてならなかった。
紆余曲折を経て地元に戻り、今度は何もない(というと語弊があるが )世界で生きていくことを始めた。すると不思議なことに、何もないからこそ見えるものがあることに気づいた。
ビルに邪魔されない広い空が真っ赤に染まる壮大な夕暮れを見たり、使い古されていないまっさらな風を全身で浴びたり。
知っていたはずの田舎の良さは、一度離れてみたからこそ素晴らしいものだと気づいた。そして、「消費する」だけだった人生が自分で何かを「作りだす」生活へと変わっていった。
指輪を作り、棚を作り、絵を描き歌を歌う。
今までの自分の世界になかったものが一気に広がっていく気がした。
Countrygentlemanのもつ意味

辞書でcountry gentlemanを調べてみると、
(いなかに広い土地を持ち広大な屋敷に住む)紳士[貴族]階級の人,地方の大地主.
とある。
出典:weblio(http://ejje.weblio.jp/content/country+gentleman)
イギリスでは紳士と呼ばれる人の中でも、カントリージェントルマンこそが尊敬されていたそうだ。
その理由は自分が思うに、都会で享楽的な生活を送るのではなく、田舎でしっかりと自分の土地を守り食べ物や動物を「生み育んでいたから」ではないかと思う。
もちろん自分は貴族でもなければ大地主でもない。(そうであればよかったのだが)けれども自分が何かを生み出していくことが、本当の人間の生き方ではないかと、ふと思うようになった。
せっかく人間として生まれたからには、人間らしい生活が送りたい。そして一人の人間として、より成熟した何者かに成りたい。
そんな思いで、ブランドのコンセプトと名前をCountry Gentlemanという言葉に託すことにした。
カントリージェントルマンのコンセプト


何かを生み出していきたいと思い、ブランドネームとしたカントリージェントルマン。
2016年にブランドを立ち上げ、まだまだ足りない部分やできないことの方が多い。それでも、少しずつコンセプトができてきた。
その一つが、本当のカントリーを表現すること。
世間には今、カントリー”風”な作品が多すぎるような気がする。
100円ショップで買ってきた素材でちゃちゃっと作って「はい、カントリー風!」という感じで。
でも別に、それが悪いというわけじゃあない。何かを作ろうとするときにはまず場所が必要だし、都会ではそのちょっとした場所すら確保が難しいのは十分にわかっている。そして何かを作り出そうとしている時点で、単純にいいなあと思う。
ただ、自分の目の前には広大な場所がある。
釘をいくら打ち付けても誰にも怒られない環境がある。
それなら自分はカントリー”風”ではない、自分なりの本物のカントリーを感じられる作品を作りたいと思った。
そのためにはそこらへんにある材料ではなく、アメリカやイギリスなどカントリーの本場から仕入れた材料で、本物を作る。本物のヴィンテージ素材で指輪を作り、棚も作る。
作品を手に取ってもらう人に、その奥にある味わいや歴史を感じてもらえたら最高だと思う。
(そのために費用は莫大になろうとも。。)
都会もかっこいい。でも田舎もかっこいいんだと自信を持って言いたい。
使い古されていない透き通った風と、緑の匂い。
泥に汚れた靴と、オイルまみれのTシャツ。
そんな男くさいカントリーを表現すべく、今日もカントリージェントルマンという生き方を模索する。
考えるよりはまず、Play Fastで。