
人に何かを「伝えたい」。
これは我々人類が生活をする上で、遥か数千年も前から脈々と受け継がれてきた想いです。
例外なく私にも湧き上がってきたそんな「伝えたい」という気持ちを実現すべく、いつもお伝えしているヴィンテージアクセサリーの世界から少し離れ、
今回はヴィンテージポスターにまつわる知られざる歴史をお伝えしたいと思います。
外出することすらままならない現代において、ことインテリアの重要性はこれまでになく高まってきているのを感じています。
そんな中でふと壁に飾ってある「ポスター」は、私たちの目をいつも楽しませてくれます。
そんなポスターにまつわる歴史を、是非とも調べてみたい。そう思い、この記事を書いております。
※はじめにお含み置きいただきたいこととして、私はポスターについての知識はほとんどなく、あくまでも素人なりの視点で、私なりの観点から、ポスターの歴史を紐解いていきたいと思っております。
より詳細な歴史をお知りになりたい方は、ポスターを愛する偉大な先達の方々の情報をご覧いただければと思います。(先達の皆様におかれましては、どうか温かい目で見守っていただければ幸いです。。)
それでは、現代の閉鎖的な世界の中で私たちの心を温めてくれる”ポスター”の、知られざる歴史の旅へ共に足を踏み入れていただければと思います。
ポスターの素材
まずはポスターの歴史をお伝えする前に、簡単にポスターの素材である”紙”の歴史についても触れておきたいと思います。

人に何かを「伝えたい」。そんなふうに我々の祖先も考えました。
彼らがはじめに情報伝達の手段として用いたのは、”石”であったろうと思います。
現代において優れた記録媒体としてあげられるのがCDですが、理論上耐用年数は100年しかないとも言われており、風化やサビなどの点も考慮すれば紙よりも金属よりも、実は石の方がはるかに長期的に情報を届けることができます。
その点から考えれば、(伝えられる情報の多寡はあるにせよ)石を記録媒体としていた彼らはある意味で合理的でもあったように思います。
少しだけ脱線させていただけるとするならば、この話をする際に思い出したのが、コニャックの世界的なブランド「ルイ13世」と、著名なラッパー・セレブリティであるファレル・ウィリアムスの興味深い試みです。
※以下が実際のコニャック「ルイ13世」です。非常に高級であり、少し調べただけでも20-30万円ほどの値がついているほどです。

ニガブ・プレスビルダー, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons
※自動翻訳>日本語でご覧ください。
彼らは2017年、これまでにない試みを行いました。
それは「2117年に新曲をリリースするが、地球温暖化が進めばその曲は消失してしまう」という斬新なものでした。
詳しくは上記動画を日本語訳してご覧いただければわかりますが、具体的には以下のようなものです。
ファレルウィリアムスが新曲を作成
リリースは2117年予定
曲はコニャック「ルイ13世」の葡萄畑の土で作られたレコードに記録される
レコードは水に弱いケースに入れられ100年間保管される
地球温暖化による海面上昇が止まらなければ、ケースの中にある土のレコードは自然破壊されてしまう
あえて脆弱な記録媒体を用いることで、その記録を守るために我々の行動を変えていこうという画期的な試みは、現在進行形で続いています。
我々一人一人の前向きな取り組みで、96年後の未来にこの曲が届いてくれることを私も願ってやみません。
話を戻しますが(脱線しすぎました。失礼致しました。)、紙の原点として挙げられるのは紀元前3,000年前ごろに発明されたとされる、エジプトのパピルスと呼ばれるものです。

Zyzzy, Public domain, via Wikimedia Commons
これは狭義においては紙とは呼べないそうですが、薄さや携帯のしやすさ、植物(パピルス草)から制作されている点を考えれば、私個人としては紙の原点と呼んでも差し支えないようにも思います。
その後人々は粘土板や陶器、動物の皮や金属などにも思いの丈を刻み、記し続けていきました。
アジア圏においては竹や木を用いた竹簡や木簡と呼ばれるもののほか、亀の甲羅に傷をつけることで占いなども行っていました。(この頃甲骨文字なども誕生しました)
現代の紙の直接の祖先とされるのが、20世紀に発見された紀元前150年ごろの中国の紙ですが、この「紙の製法」が日本へ伝わったのは7世紀初め頃の話とされています。
それが徐々にイスラム世界へと伝播され、11−12世紀ごろにはヨーロッパへと渡り、そこからさらに世界中へと浸透していくことになります。
大きな転換期となったのは1455年ごろにドイツのヨハネス・グーテンベルクが編み出したとされる、活版印刷技術が登場したことです。(ちなみにこの頃の初期の印刷物は非常に貴重なものとされ、”インキュナブラ”とも呼ばれるそうです)
以下が活版印刷機であり、1883年のものです。かなり厳つい作りとなっています。

Ben Franske, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
これにより活字での印刷が飛躍的に進化するところとなり、紙の需要は大幅に増大していくこととなります。
しかしながらこの頃はまだ紙は貴重なものであり、現代のように本格的に紙が大量生産されていくのは18-19世紀になってからのことでした。
ポスターの歴史

Jules Chéret , Public domain, via Wikimedia Commons
紙の歴史についてだけでも非常に長文となってしまい、いよいよこの章からがポスターにまつわる歴史となります。
現代まで続くポスターの直接的なスタイルが確立されたのは、大家であるジュール・シェレやトゥールーズ・ロートレックらが登場した19世紀まで遡れますが、
せっかくの機会ということもあるため、さらに歴史を遡ってみたいと思います。
※ここからは私の推測が多分に含まれます。正確ではない情報も含まれるためあくまでも個人的見解としてご覧ください。
1455年ごろにドイツのヨハネス・グーテンベルクが生み出した活版印刷技術の登場により、印刷することは以前よりも容易に、そして安価になっていきました。
16世紀ごろから徐々に一般の人々の間でも印刷された紙が流通するようになっていく(史実によればその頃の印刷機は性能が良くなり、1日あたり約1,500部ほど印刷することが可能になったほどだそうです)わけですが、
この頃の代表的な印刷物として知られているのが”ブロードサイド”もしくは”エフェメラ”と呼ばれるものでした。(ご興味のある方はチャップ・ブックについてもお調べいただければと思います。)

※こちらは1863年、奴隷解放宣言後のアメリカにおいて、有色人種の人々へ米軍への入隊を募るために印刷されたブロードサイドです。
これは簡単に言えば「1枚の紙の片側に、何らかの情報が印刷されたもの」と言って差し支えないかと思われます。
印刷される情報として、多くの場合吟遊詩人の詩や、ニュース、歌などが印刷されていました。
価格としては1ペニー(ないし半ペニー)ほどで流通していたとされ、16世紀ごろの一般的な兵士の月給が8-10ペンスほどだとされることからも、一般人にも決して手に入らない価格ではないことがわかります。
これにより、情報を伝えたい人と情報が欲しい人の間を繋ぐの一つの媒体として、紙が機能するようになっていったのではないかと考えられます。
その後19世紀ごろから、より安価で大量の印刷物(特に新聞)が市場に出回るようになり、これらブロードサイドやエフェメラは姿を消していきますが、
それまでの間、ブロードサイドは人の手に渡り、さらには壁に貼られるようにもなっていきました。(さらに遡れば、初期のブロードサイドは布に情報を記していたそうです。

ちなみにこちらのブロードサイドは、1859年のアメリカで印刷されたもので、ジョン・ブラウンの処刑に対して抗議を促し結集するためのものでした。

ジョン・ブラウン(1800-1859)という人物は熱心な奴隷制廃止主義者であり、ハーパーズ・フェリー襲撃事件では思ったほどの奴隷たちの参加が得られずに捕らえられ、最終的には処刑されてしまうこととなりましたが、
言論ではなく行動でしか奴隷制度の廃止は成らないということを、自らの行動でまざまざと見せつけた彼の人生はアメリカ全土に大きな影響を与え、その後の南北戦争の引き金にもなったとすら言われています。
(話が脱線しがちなのは私の悪い癖です、、失礼致しました。)このブロードサイドがポスターの原点であるとすれば、16世紀ごろにはすでにポスターの始まりは存在していたと言っても、あながち間違いではないように思われます。
(事実、ブロードサイドには文字だけでなく、木版で作られたイラストなどが一緒に印刷されることも少なくありませんでした。)
ヴィンテージポスターを語る上で欠かせない2大巨頭
ヴィンテージポスターを愛する諸先輩方からすれば、「ベタすぎる」「初歩的すぎる」と厳しいお叱りの声を頂いてしまいそうですが、
ヴィンテージポスターの中でも初期の2大偉人を挙げるとするならば、ジュール・シェレとトゥールーズ・ロートレックについて言及しないわけにはいかないのではないかと、初心者の私は考えます。
まずご紹介するのはポスターの歴史について語る上で言及せざるを得ないであろう「ポスターの父」とも呼ばれる大家、フランス人のジュール・シェレ(1836-1932)です。

彼のキャリアのスタートは1849年からのことであり、初期の頃に平版画(リトグラフ)やデッサンについて学びながら、宗教画の職人として働きました。
彼の作品が人々の目を集めるようになったのは1858年のこと。”シャンゼリゼのモーツァルト”とまで呼ばれたジャック・オッフェンバックのオペレッタ「地獄のオルフェ」のためのポスターを製作したことがきっかけでした。
※初版をお見せできればと思ったのですが、如何せん知識がないため初版がどちらかについて明確な判断ができかねるため、発見した2点をご紹介します。
こちらが1866年に発見されたもの。

こちらはデザインが変わった1874年のものとなります。(ポスター中央最下部に、”J.Chéret”の記載があります。)

それまでの型にはまったような素朴なデザインのポスターとは異なり、彼のポスターに登場する女性である通称:「シェレット」(Cherette)と呼ばれるモデルや、ダイナミックで動きのあるスタイルが好評となり、
数多くの企業から制作依頼を受けるほど人気となった彼は、1866年に自分のリトグラフ工房を開設することになります。
自分の活動の起点となる工房がオープンしたことで、商業的なポスターに対する芸術的なクオリティも両立することができるようになった彼は、その後も精力的にポスターをデザインし続けます。

彼の功績はフランス政府からも認められ、1890年にはフランスで最も敬意ある勲章、レジオン・ドヌール勲章を授与されるなど、その後のアーティストたちにも多大な影響を与えることになりました。
そんな彼の影響を受けたとされるアーティストの一人が、トゥールーズ・ロートレック(1864-1901)です。

私なりに彼を一言で言い表すとすれば、「天から多くの苦難を背負わされた天才」となるでしょうか。
1864年、裕福な伯爵家の子として生まれた彼は幼い頃から絵の才能を見出され、絵のレッスンを受けていました。
そのまま順風満帆な芸術家人生(そんなものが存在したことは聞いたことがありませんが)を送るものかと思われた彼に、初めの試練が襲いかかります。
それは13歳、14歳の頃にそれぞれ左右の大腿骨を骨折してしまうというものでした。
回復には長期間を要し、最終的には歩けるようにはなりましたが、彼の足だけは成長が止まり、胴体は成人、足は子供のように短いままとなってしまいました。(成人時の身長は152cmとされます)
これは彼の人生の上に暗い影を落とすこととなります。(現代医学においては、成長が止まったのはこの骨折が直接の影響であるというよりは、両親が近親婚をしたことによる遺伝的な病気であるとされています)
その後彼は拠点をパリに移して、さまざまな画家との出会い(ゴッホやベルナール)や絵画の勉強を続けますが、後の更なる悲劇のきっかけともなる、夜の世界ともこの時出会うこととなります。
彼が持つ独自の芸術性に魅せられた人々から依頼を受け、名作「ムーラン・ルージュ」(1891年)のポスターをはじめ、彼は様々な芸術を生み出していきます。

Jl FilpoC, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
それまでにも大量の絵画作品を世に送り出してはいましたが、意外にも彼を一躍有名にしたのはポスターであり、惜しむらくは生涯彼が制作したポスター作品はたったの31作ほどと寡作であったことではないでしょうか。
作品が認められていくのとは反対に、彼の特異な姿は周囲からの差別的な対応へとつながり、彼はそこから逃げるようにどんどんお酒と性行為へとのめり込んでいきます。
(一説には差別的な目で見られていた自分と、夜の世界の女性たちに彼はある種の共通点のようなものを見出し、惹かれていったのではないかと考えられているようです)

最終的には深刻なアルコール依存症や性病の一つである梅毒に罹ることとなり、36歳の若さでこの世を去ることとなりました。
退廃的な世界の美しさを、彼独自の視点から描いた数多くの作品は現在でも世界中に多くのファンを持ち、愛されています。
ポスターの役割

19世紀から誕生した現在のポスターのスタイルはその後も多くのデザイナーや芸術家によって進化させられていきますが、
新聞紙やチラシ、テレビやラジオ、現代においてはインターネットの普及により、情報伝達手段としての役割は以前ほど担うことは少なくなってきてはいるものの、
今でもさまざまなイベントや宣伝のために活用されています。(ミュージシャンや映画のポスターは一般的ですね)


例えば、舞台やイベントなどの告知のために作られたポスターは、その日が来ればもはや情報伝達の意味をなさなくなってはしまいますが、
私はその後の役割にこそ、ポスターの味わうべき新たな役割が生じるのではないかとも考えています。
一つは、記録媒体としての役割です。

何年何月何日にどんな舞台・イベントが開かれたのか、さらに言えばその当時に人気だった、流行していたデザインについて、後世の人はそのポスターを見ることによって知ることができます。
これは例えば、私たちがシェレやロートレックのデザインしたポスターを見るとき、その瞬間だけ19世紀の煌びやかな舞台に思いを馳せることができることや、アール・ヌーヴォーの曲線や有機的な生き生きとした美しさを味わうことができることからも分かります。
スマホやPCなどのいわゆるデバイスでももちろんこれらのポスターを見ることもできますが、毎回そのページを表示させなければならず、待ち受けにしていたとしてもそれらを”何気なく”眺めることは難しいでしょう。
情報伝達手段・記録媒体として近年軽視されがちな”紙”であるからこそ、私たちはふとした瞬間にタイムトラベルすることができるのです。
また、ポスターのもう一つの役割がインテリアとしての役割です。

アメリカにおいて、シェルやコカコーラなどのヴィンテージポスターが人気を博していますが、何もない殺風景な白い壁にこれらのヴィンテージポスターが一つあるだけで、その場所はどこか人の気配が感じられる、温かな空間へと一瞬で様変わりしてしまう気さえします。
このように、ポスターは空間の雰囲気すらも一瞬で変えてくれるような、不思議な魅力も持ち合わせています。

ちなみに写真のポスターも良いのですが、私のおすすめはイラストが描かれているヴィンテージポスターです。それも手書きのデザインであれば最高だと思います。
また、今ではPCで寸分の狂いもない美しいデザインを作り出すことが可能になってきています。しかし人が手書きで文字やデザインを書くと、どうしても気づかないくらいのズレや歪みが生じてしまうものです。
しかし、私はそこにこそ価値を感じるのです。
私たち人間の脳が、一見しただけでは気づかない、人がデザインしたことによる微細なズレや歪みのようなものを無意識的に感じ取り、「このポスターからは無機質な印象ではなく、有機的な印象を感じる。」と判断させてくれているのではないか。
つまりはそれこそが「この作品には命が吹き込まれている」と、私たちが思う要因の一つになっているのであり、翻ってはその部分にこそ魅力を感じているのではないか。
そんな風に考えてもいます。
ヴィンテージポスター×Country Gentleman
世界はこれまでになく閉鎖的な環境に追いやられ、必然私たちは部屋の中にいる時間が多くなってしまいました。
これまで通りに海外へ旅に出たり、気軽に友人たちにも会えなくなっているこの状況の中で、私なりに「家の中でも穏やかな気持ちでいるためにはどうすれば良いのか」を、日々なんとなく考えるようになりました。
その一つの答えが、「部屋を楽しい空間へと変えていく」というものでした。
私が好きなもの「ヴィンテージ」と「ポスター」、そこに「サインペインティング」を加え、今回Country Gentlemanとして初の形態となるアート作品を発表することにしました。
それがこちらの”Bright LIFE(輝く人生)”です。

下地として1955年のヴィンテージマガジン”LIFE”誌を数ページ使用し、その他にも古い新聞紙などを貼り付け、
その上からゴールドリーフ(金箔)とサインペインティングを施しました。文字のデザインも19世紀ごろの古く力強いものを選び、どこか懐かしさを感じられる作品へと仕上がりました。

枠に使用した木材は、数年の間野ざらしにしておいた傷んだ木材を使用し、アクセントにアメリカの農場で使われていたヴィンテージの蝶番を贅沢に4つ、角に配置することによって、味わい深い特製の枠が完成しました。

(実は蝶番を留めたネジもヴィンテージであり、今では珍しいマイナスのネジとなっております。ネジの頭は1cmとかなり大きいものであり、見つけ出すためにかなりの長い時間を要しました。)
この作品は厳密にはポスターではありませんが、ご覧いただければきっと何かを感じ取っていただけるような特別な雰囲気のある作品となったように思います。
サイズは横111cm×縦45.5cm×厚み3cmとなり、かなり大きいサイズとなります。重さはまだ計測しておりませんが、おそらくは5kgほどあるのではないでしょうか。
背面には取り付け金具などはまだ取り付けておらず、基本的には”置く”タイプの作品とはなっておりますが、ご相談をいただければ金具設置も対応できればと思っております。

これからもカントリージェントルマンでは、独自の視点からヴィンテージ素材を使用し、ヴィンテージフリークの皆様の心の琴線に触れることができるような、特別な作品を制作してまいります。
不定期ではありますが、ブログにて発信させていただきますので、お手隙の際にはお立ち寄りをいただけますと幸いです。
長文とはなりましたが、最後までご覧をいただきまして誠にありがとうございました。
Country Gentleman
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