私がCountry Gentlemanとしてブランドを立ち上げてから、もうすぐ4年が経とうとしています。
このCountry Gentlemanというブランド名は、紳士の中の紳士、カントリージェントルマンとしての生き方の美しさと爽やかさに心を打たれ、自ら決めたものです。
今回は、改めて紳士とは一体何なのか、そして我々はそこから何を学びとることができるのかを、この機会にもう一度問い直してみたいと思います。
※約9千文字近い長文となりますので、どうか気楽なお気持ちでさらりとご覧いただければ幸いです。
紳士の始まり
そもそも紳士(Gentleman)の語源は、中世イギリスの最下層の領主身分の総称であったジェントリ(Gentry)からきている、というのが有力な説とされています。
具体的に言えば1400年頃までそのジェントリという呼び方は余り認知されておらず、1413年以降から徐々に使われ始めました。その後1431年ごろに印刷された地主のリストの中に”ジェントリ”と呼ばれる区分が追加されていることから、
ジェントリは15世紀ごろからしっかりと階級の一部として認識されてきたのではないかと思われます。
ジェントリは元々自らが土地を治めていた人たちであり、14−15世期には有力貴族の家臣として仕えることが多かったそうです。
その後1455年になると、赤い薔薇(ランカスター家)と白い薔薇(ヨーク家)の権力闘争である”薔薇戦争”が始まってしまいます。
その名前の優雅さとは正反対に、この血腥い戦争は30年も続き、多くの有力貴族がここで途絶えてしまうことになりました。
結果的に赤い薔薇のバッジを付けて戦っていた、ランカスター派のヘンリー・テューダーがヨーク家を武力で制圧し、テューダー朝を築くことになります。
戦争により有力貴族の多くが絶えてしまったため、その隙間を埋める形でジェントリの人々はテューダー朝で重用されることとなります。
そのほかにも、イギリスとフランスの、実に116年にも及ぶ戦争(百年戦争:1337年-1453年)や、14世期半ばに全世界の約22%(1億人)がなくなったとされる黒死病など、
非常に大きな時代のうねりの中でも、自らが治める土地を守り続けたジェントリ達はさらに力と認知度を増し、彼らは貴族とともに「地主貴族層」として扱われるようになりました。
その後も彼らの社会的影響力は20世紀の初頭に至るまで保持され続けるわけですが、彼らがそこまで権力を保持し続けられた理由とは、一体何なのでしょうか。
ジェントリの振る舞いこそ紳士の源流
ジェントリ達には、自らが治める広大な土地がありました。
彼らはそこで傲慢な振る舞いをすることもできましたが、多くの場合そうはしませんでした。(例外はあったようですが)
彼らはその土地や暮らす者達から収奪ばかりをしようとするのではなく、むしろその地域社会に対しては治安を守ったり、戦争が起これば「いざ鎌倉」とばかりに率先して参戦したり、慈善事業にも精を出したりしていたそうです。
詳しくは後述しますが、この気高き精神は"noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)"と呼ばれ、つまり「高貴なものが果たすべき責務」として、彼らはこの精神を大事に育んでいきました。
このような品位のある振る舞いや行いが、民衆からの信頼と尊敬を集めたために彼らはその権力を維持し続けてこられたのではないか、と私は考えています。
そしていつしか、そんな「ジェントリのように振る舞う人」を表す言葉として、「ジェントルマン(Gentleman)」なる言葉が誕生したのではないかと思うのです。
カントリージェントルマンとは
ここまで、ジェントルマンという言葉の成り立ちや歴史についてお話しさせていただきましたが、皆さんは「カントリージェントルマン(Country Gentleman)」という言葉も存在することを、ご存知でしょうか。
カントリージェントルマンをそのまま直訳すれば、「田舎の紳士」となるかと思います。しかし特にイギリスでは、カントリージェントルマンは尊敬に値する存在として、また本物の紳士として今も認識されています。
日本を代表する紳士の一人に白洲次郎という人物がいますが、彼が話していた言葉の中に、『イギリスの社交界でいうと、あの人はカントリー・ジェントルマンだっていうのが本当のジェントルマンだな』というものがあります。
(参考:文藝別冊 [総特集]白洲次郎 生後100年より)
これは、そもそも「ジェントルマン」という言葉自体が、広い土地(つまりは田舎)を守り育んでいたジェントリに起源を持つことから、「カントリー(田舎)」を守る「ジェントルマン(紳士)」こそが本物の紳士である。という認識がイギリス人の中であるのではないかと思われます。
さらにこんなお話もあります。
去る2020年4月3日、惜しまれつつこの世を去った偉大な作家、ウェールズ出身のCWニコルさんはこのようなエピソードを紹介してくれています。
「日本のパスポートを持ってイギリスを旅行している際、あるホテルのスタッフは私に「東京にお住まいですか」と聞いてきた。私が「いいえ、日本アルプスの長野に住んでいます」と答えると彼らの態度は変わり、多くの場合彼らは私の部屋をアップグレードしてくれさえしました。」と。
我々日本人からすると、田舎に住んでいることがなぜそこまで尊敬されるのか、不思議に思うところではありますが、背景にはジェントリが築き上げてきた”田舎へ住む紳士”への尊敬の土壌のようなものが、あるのであろうと思います。
その名の通り田舎(カントリー)に領地や城、土地を持っていて、その場所を守りながらも都市の動向に目を光らせ、そしていざ何か事が起これば、真っ先に都市へ出かけていって彼らの襟を正す。
カントリージェントルマンとしての生き方は、そんなものであるとされています。
しかし、ここである疑問が生まれます。
なぜ既に「ジェントルマン」という言葉があるにもかかわらず、それと区別するかのように「カントリージェントルマン」なる言葉が生まれたのか。
それに対する答えを探すことが、ジェントルマンを理解する上でヒントになりそうな気がします。
現代のジェントルマン
さて、ここでいったん話を現代に戻します。現代では、ジェントルマンはどのように認識されているのでしょうか。
少し調べてみると、”現代におけるジェントルマン”とは「常にレディーファースト」で「決して怒らない」。そして「とにかく優しい」「悪口は言わない」「オシャレ」などといった要素を持っているものと、認識されているようです。
つまり、ジェントルマンは女性に”モテる”ものであり、多くの場合女性からの憧れの対象として認識されているようです。
確かにジェントルマンがそういった基本的な素養を持っているであろうことは理解できますし、それが彼らに気品や上品さをもたらしているであろうことも分かります。
しかしあえて厳しい言い方をすれば、私はジェントルマンとはそんな浅薄なものではないと信じています。
言ってみれば「レディーファースト」や「優しい」などの要素は、ジェントルマンという概念の上澄みのようなものであり、決してその本質に近づくものではないと考えます。
先ほどお話しした通り、「ジェントルマン」と「カントリージェントルマン」という、紳士を表す言葉が二つ存在しており、その中でも「カントリージェントルマン」こそが本当の紳士であるとされるのには、
時が経つにつれ「ジェントルマン」という言葉が一人歩きし、「レディーファースト」ができる人や「優しい」人が紳士であるという、いわば本来の意味とは違う方向へと進んでいってしまったため、
”本来のジェントルマン”を表す言葉として「カントリージェントルマン」が誕生し、それが本当の意味での尊敬を得たのではないか、と思うのです。
白洲次郎という生き方
私がこの世で一番尊敬している人物が、白洲次郎という方です。
彼について詳しくは別の記事(カントリージェントルマンとは)でもご紹介していますが、少し彼についてまとめておくと、
白洲次郎は1902年2月17日に、実業家で富裕であった父の次男として生まれ、イギリス最高学府の一つケンブリッジに留学。
流暢な英語と、国際的な広い視野を育み、日本に帰国後は新聞会社などで勤めたのち徐々に日本の政治の世界に顔を出すようになる。
第二次大戦後には時の名宰相、吉田茂の懐刀としてGHQとの折衝を行う終戦連絡中央事務局で参与に就任し、英国仕込みの流暢な英語と、類まれな視野をもとに八面六臂の活躍を見せ、日本立て直しの最大の功労者となる。
GHQの要人をして、「従順ならざる唯一の日本人」とまで言わせしめるほど、日本を占領から解放するために苛烈な戦いを繰り広げた人物である。
権威を笠に着た人間が大嫌いで、目上の者とはことあるごとに壮絶な舌戦を繰り広げる一方、目下の者にはとにかく優しく、常に彼独自の筋(Principle:原理・原則)を通して行動したことで知られる。
そもそも彼は反戦派であり、第二次世界大戦が始まる前にはその先見の明により「東京は焼け野原になる」と予見し、鶴川村(現在の東京都町田市)の古民家を買い取り改築しながら食料の生産に精を出した。 これは彼なりのカントリージェントルマンとしての暮らしの体現であるとも考えられている。
こんなところでしょうか。
また彼は、”日本で初めてジーンズを履いた人物”としても知られており、明石家さんまさんや木村拓哉さんなども彼のファンであることを頻繁に公言するほど、とにかくカッコいい人物であったことも知られています。
彼が生前、ことあるごとに口にしたのが「プリンシプル(Principle)」という言葉でした。これは日本語に訳せば”原理・原則”にあたり、分かりやすく言えば筋を通すことを一番に考えて常に行動していたそうです。
彼がいかにして「紳士」と呼ばれるに至ったかは、北 康利氏の名著”占領を背負った男 白洲次郎”に詳しく書かれており、ぜひ一度お読みいただくことをオススメしますが、
私は彼の生き方から、現代の紳士たるものの生き方について学ぶべきところが多くあるのではないか、と思っています。
紳士の要素その1:プリンシプル
白洲次郎が非常に大切にしていたこと、それがプリンシプル(原理・原則)でした。
彼は後年、こんな話をしています。
「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。」
紳士の国イギリスの最高学府、ケンブリッジでは名家の子弟や優秀な学生たちが多く在籍し、毎年多くの紳士や政治家候補を輩出するわけですが、彼らを紳士たらしめる要素の根底には、
自らの発言・行動にはプリンシプルが伴わなければならないということを、骨の髄まで浸透させるような教育があったのではなかろうかと思う話です。
また彼はこんな風な言葉も残しています。
「プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことは無い。プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう」
けだし至言であると感じます。
プリンシプルを現代へ
では現代において、このプリンシプルをどう捉え・活かすべきでしょうか。
プリンシプルとは日本語訳すれば、「原理・原則」を指します。これは「筋を通す」といえばわかりやすいかもしれません。
白洲次郎は「これは私の持論だが、日本人と話をしていて、ことに政治の話をしていてよく感じることは、物事についてプリンシプル(原則とかいうもの)をちっとも考えないということである。ー(中略)ープリンシプルに基づいた言動はいつでも率直であるからだ。」(出典:プリンシプルのない日本)と語っています。
つまり大事なことは、自分が貫くべきプリンシプルとは何なのかを、「自分の頭で考え抜き、またそれを実行に移すこと」なのだと思います。
彼が言うには日本でも昔の武士階級などは、全ての言動にはプリンシプルがなければならないと徹底的に叩き込まれたそうだとも話していますが、いつの間にか私たち日本人はそのことを忘れてしまったのかもしれません。
しかし、白洲次郎のようにプリンシプルを貫き通した男は日本にも少なからず存在しています。皆さんは杉原千畝なる人物をご存知でしょうか。
プリンシプルの人、杉原千畝
時は1940年へと遡ります。第二次世界大戦の真っ只中のリトアニアで、カウナス領事館に赴任していた外交官、杉原千畝は異様な光景に目を疑います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D#%E4%B8%8D%E9%81%87%E3%81%AE%E5%BE%8C%E5%8D%8A%E7%94%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E9%A1%95%E5%BD%B0%E3%81%B8
彼がいた領事公邸の鉄柵の前に、百人ほどの老若男女が大挙して押し寄せていたのでした。
実はこれは、ヒトラー率いるナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害から逃れるために、リトアニアを脱出するためのビザの発行を求めてきた人たちだったのです。
そんな窮状を見かねて、彼は外務省へビザの発行の許可を求めましたが、日独伊三国同盟を間近に控えていた時期ということもあり、外務省は”発給条件厳守”つまり「不必要なビザは発行するな」という回答を繰り返すのみでした。
しかしナチス・ドイツによる迫害は凄まじく、事態は急を要していました。
彼、杉原千畝は悩みます。もし自分がビザを発給すれば職を失い、家族を路頭に迷わせることになるかもしれない。それだけならまだしも、家族にも危害が及ぶかもしれないと。
しかし彼は自らのプリンシプルに従い、「人道上どうしても拒否できない」としてビザを発給し続け、最終的に約6,000人とも言われる多くのユダヤ人たちの命を救ったのでした。
この話から学びとれることは、まず批判を恐れずにいえば「プリンシプルを貫くと、自らの不利益になることも起こりうる」と言うことです。
事実彼は帰国後、外務省から退職通告書を送られ職を失います。その後も彼に対する心ない中傷は続き、「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」とまで言われていました。(もちろんそんな事実は一切ありませんでした)
彼の名誉回復は2000年になってからのことで、当時の外務大臣河野洋平の顕彰演説によって、ようやく日本国政府による公式の名誉回復がなされました。しかしこれはなんと彼の没後14年後になってからでした。
ここだけを見れば、プリンシプルなど貫くだけ損だと、いかにも現代の日本人のような考えになりがちですが、さらにこの話から学べることがあります。
それは「自らのプリンシプルを貫き、それで傷ついたとしても、その行動は自らの精神を一段高みへと引き上げ、そしてそれはいつか必ず認められる」と言うことです。
彼の心のうちの全てを我々がつまびらかにすることはもはや叶いませんが、しかし彼は少なからず後悔はしていなかったのではないかと思うのです。
彼はこう語っています。「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」と。もし彼が自らの身の可愛さのためにビザを発給しなかったとしたら、おそらく彼は後年酷く後悔したでしょう。
自らの心を汚さないために、そして自らの信ずるプリンシプルを守り抜くために、彼はそれを貫く道を選択したのです。
いわれなき中傷や失職など彼を取り巻く環境は決して良いものとはいえませんでしたが、それでも多くの人間や国が彼の行為を賞賛しました。
1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。(出典:杉原千畝)
彼の崇高な行動は、今でもユダヤ人たちの中で広く語り継がれています。
プリンシプルを貫く上で、私たちはここまでの極限の選択を迫られることはないにせよ、参考にすべきところは限りなく多いと思うのです。
紳士の要素その2:ノブレス・オブリージュ
白洲次郎が大切にしていた考えのもう一つが、このノブレス・オブリージュ(高貴な者が果たすべき責務)でした。
紳士の極みにあるカントリージェントルマンたちは、自らが治める広大な土地のなかで、自らがどのように振る舞うべきかを考え実行し、そしてそれは長年にわたって親から子へと受け継がれてきました。
その受け継がれてきた崇高な「高貴なものが果たすべき責務」とは、ある時には「その地域の治安の保持」や「治安判事などの官職を無給で引き受けること」、そして時には「率先して戦争へ出向く」ことなどでした。
これらの行いは一般の人間ができ得ることではなく、その名の通り「高貴なものこそが果たすべき責務」つまりはノブレス・オブリージュと呼ばれ、それがために彼らカントリージェントルマンたちは尊敬を集める存在となったのです。
白洲次郎が語る、彼なりのノブレス・オブリージュを感じさせてくれる言葉があります。
「人間は地位が上がれば上がるほど役得を捨てて、役損を考えろ」、「自分よりも目下と思われる人間には親切にしろよ」
いかにも権威を笠に着ている、いわゆる「偉そうにしている人間」を、彼は最も嫌いました。(そしてよく怒鳴りつけました。)
立場が上になればなるほど、下の人間のことを考え、そのためにできることを行う。美しい響きではありますがなかなかできないことを、彼は平然とやってのけていたのです。
それはきっと、紳士の本場であるイギリス・ケンブリッジで叩き込まれた、紳士としての彼の哲学に他ならないのであろうと思います。
ノブレス・オブリージュを現代へ
さて、それではこの現代においてのノブレス・オブリージュを考えてみましょう。
現代においては、昔ほど高貴な位・階級にいる人はおらず、ほとんどが同一の立場で生活を送っています。(もちろん我々もです。)
そんな中でこのノブレス・オブリージュの精神は、どのように活かすことができるのでしょうか。
これはあくまで私の考えではありますが、ノブレス・オブリージュを現代的に訳すとすれば、
「自分の立場を俯瞰し、自分が守るべき者のために為すべきことを為すこと。」であると考えます。
まず我々には、それぞれに立場があります。親、職場での役職、夫、妻、子供など。
自分がその立場にあって、自分が守るべき者のために為すべきことは何か。それを考え実践することが、このノブレス・オブリージュの現代版と呼べるのではないかと思うのです。
例えば、親は子、先輩は後輩、上司は部下、兄姉は弟妹と、それぞれが守るべき者を持っています。
親ならば「働いて子供を養う」「精神的な安定をもたらす」、上司は「部下の失敗も成功も見守り、成長を促す」「皆が働きやすい環境のために社内で戦う」など、
一見誰もが当たり前にしていることは、その立場にいるあなたにしかできないことでもあると思うのです。
いきなり皆が皆、白洲次郎や杉原千畝のような紳士としての極みのような行動はできないにせよ、自らがそれぞれ置かれた立場の中で、最大限の”ノブレス・オブリージュ”を実践していく。
そして何より自分よりも目下と思われる人間には、とことん優しく丁寧に接してあげることこそが、現代の紳士における要諦であると私は思っています。
紳士とは自らの心持ち次第
イギリス国王のジェームズ二世(1633年-1701年)に、興味深いエピソードがあります。
彼はある女性から、「私の息子に紳士の位を与えてくれませんか」と嘆願されます。
それに対して彼は「私は彼を”貴族”にすることはできるかもしれないが、例え全能の神でも彼を”紳士”にすることはできないだろう」と答えています。
個人的にこのストーリーがとても好きなのですが、つまりは紳士というものは人に与えられてなれるものではなく、その人自身が紳士足らなければならない。ということだと思うのです。
先述したような偉人のストーリー、そしてプリンシプルとノブレス・オブリージュの崇高な精神。それらを基にしながらも、
一番大事なことは「あなた自身の頭で考え抜いたプリンシプル」を持ち、「あなた自身が今いる環境の中でのノブレス・オブリージュ」を果たすことで、
一歩、また一歩と”本当の紳士”に近づいていくのではないかと、私は考えています。
プリンシプルは何か、ノブレス・オブリージュとは何か、紳士とは何か。
その答えは、いつも私たち自身の中から生まれるのかもしれません。
今回はいつものようなヴィンテージ・アクセサリーのお話ではなく、紳士とは何かについてお話しさせていただきました。
私の考えや主観が多分に含まれておりますので、途中不愉快に思われるところもあったかもしれませんが、まだまだ紳士の足元にも及ばない一人の若輩者の戯言と、軽く受け流していただければ幸いです。
世界的に不安な状況が続く昨今ではありますが、こんな時にこそ自ら内省し、自己を深く掘り下げていくこと。
そして何より身近にいる人の幸せを願うことこそが、大事なのであろうと思います。皆様の日々が少しでも明るいものとなりますよう、福島の片田舎からお祈りしながら筆を置こうと思います。
Country Gentleman
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