世界的に人気を博しているジュエリーがあります。
それが、ネイティヴアメリカンたちが生み出した芸術品の数々。
ネイティヴアメリカンジュエリー、インディアンジュエリーと呼ばれるシルバーアクセサリーは、この日本でも多くの著名人たちが身につけ、また虜になっています。
今回はそのネイティヴアメリカンジュエリーの中でも特に人気が高い、フレッドハービースタイルについてお話をしたいと思います。
フレッドハービースタイルとは一体なんなのか。そしてその背景にはどのような歴史があるのか。
今回は1800年代のアメリカ、野望と危険に満ち溢れた西部開拓時代へと時計を巻き戻していきます。
フレッドハービーとは
【フレッドハービースタイル】についてお話しする前に、欠かせない人物をご紹介します。
それがフレッドハービースタイルの名前の由来ともなった大富豪、フレッドハービーです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Fred_Harvey_(entrepreneur)
フレッドハービー(Frederick Henry Harvey)は、西部開拓時代を生きた人物であり、(1835年6月27日- 1901年2月9日)
アメリカで最初のレストランチェーンを設立したとされる豪腕経営者でした。
スコットランド人とイギリス人の両親の元に生まれ、1853年にイギリスはリヴァプールからアメリカへ移住してきました。
はじめに、彼はニューヨークにあった人気レストランに就職し、レストランを経営する上で様々なことを学びます。
それは具体的に、新鮮な食材を使って最高の料理を提供すること、何よりもサービスの質を重視し顧客を最大限に満足させることなどです。
そこで彼は、給仕人の助手や皿洗い、ウエイターやラインクック(ヘッドクックと呼ばれる料理長のもとで働く助手のようなもの)などを勤め、様々な経験を積んでいきます。
ここで学んだことが、のちの彼のビジネスに大いに役立つことになっていきます。
その後彼はニューヨークからニューオーリンズ、セントルイスに移り住み、職を転々としています。
実はその頃に宝石商として働いてもいたのですが、これもまたその後の彼のビジネスに多大な影響を与えたとされています。
転機
彼が経営者としての才覚を現し始めたのが、1870年代からのことでした。
ミズーリ州はセントジョセフに拠を構えていた鉄道会社の貨物代理店で働いていたハーヴェイは、1875年にあるビジネスパートナー(Jasper "Jeff" S. Rice)と共に、
デンバーとカンザスシティ間のカンザスパシフィック鉄道(ライバル会社でした)沿いの、小さな町に2つのレストランをオープンし人気を集めます。これが彼の初めてのレストランとなりました。
しかし全てが順調には進まないもので、このビジネスパートナーとは袂を分かつことになります。
彼の経営していたレストランは非常に好評を得ていたため、別の場所でオープンすることを計画し始めます。
いくつもの交渉を経た結果、Atchison、Topeka、Santa Fe Railroadのゼネラルマネージャーを務めていたチャールズF.モールス(Charles Fessenden Morse,1839-1926)に気に入られ、1876年位にはついにハーヴェイレストランをオープンすることになったのです。
これがのちに映画化までされる伝説のレストラン、「Harvey House」の始まりでした。
粗悪な”食堂”
19世紀になると、アメリカでは蒸気機関車による交通網が急速に発展していました。
具体的には、1850年代にはすでにミシシッピ川以東に路線網ができあがっていたほどでした。

http://railroads.unl.edu/documents/view_document.php?id=rail.str.0243
これにより、仕事や旅行などで鉄道を利用する人たちが急激に増加し、鉄道沿線はある種の経済地区へと発展していきます。
しかし、この頃はまだまだ発展途中であったため、いわゆる食堂で出される料理はお世辞にも美味しいとは言えませんでした。
特にシカゴ西部の食べ物は、最悪であったとの記録もあります。
ここに目をつけたハーヴェイは、この粗悪な”食堂”とは徹底的に差別化を図り、一気にその勢力を拡大していくことになります。

http://hchm.org/tag/harvey-house/
ハーヴェイ・ハウスの最高のサービス
ハーヴェイはこのレストランに、自分の経験の全てを注ぎ込みます。具体的にハーヴェイ・ハウスのサービスはこのようなものでした。

http://www.harveyhouses.net/states/newmexico/nmhouses.html
・列車の中に冷蔵の保存庫を設置し、アメリカ各地の新鮮な食材を提供した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E5%8F%B2
・徹底的にマナーを訓練された18−30歳までの女性に、最高品質のサービスを提供させた。
・電車に到着時刻を知らせる電信システムを搭載させ、停車と同時に注文されていた料理を提供できるよう務めた。
・料理人には一流を採用し、レストラン内部では高級な銀器や統一された制服を採用し差別化を図った。
今ままでの食堂にはなかったこれらの高品質なサービスを提供することで、ハーヴェイ・ハウスは会社員から観光客まで幅広い顧客を魅了することに成功し、
1880年代後半には、サンタフェ鉄道沿いの100マイルごとにハーヴェイ・ハウスを建てる程の急激な成長を遂げました。(1885年には17のレストランを経営していたそうです)

https://thesource.metro.net/2013/09/04/check-it-out-the-harvey-house-menu-from-1943/
また、蒸気機関車は今の電車とは違い、停留所ごとに大量の炭や水を補給したり、機関の点検や整備をする必要があったため、通常で3−4時間ほどの休憩が必要でした。
この時間を埋めるための最高の選択肢ともなったのが、このハーヴェイ・ハウスであったわけです。
さらにこの後、1888年にはサンタフェ鉄道内にも食堂車をオープンさせ、多くの乗客から絶賛されました。
ハーヴェイ・ガールズ
ハーヴェイ・ハウスを語る上で、忘れてはならない存在があります。それがハーヴェイ・ハウスでウエイターを務めていた女性たち、通称ハーヴェイ・ガールズです。

https://azmemory.azlibrary.gov/digital/collection/otmhar
ある資料によれば、この女性たちこそがアメリカで最初の女性労働者であるという記載も見られるほど、革新的な存在であったことがわかります。
常に先進的な考えを持つフレッド・ハーヴェイは、女性を労働力として雇うことに微塵の躊躇も見せませんでした。それが結果的に、このハーヴェイ・ガールズなる唯一無二のアイコンを作り出すことにつながったのでした。
ハーヴェイ・ガールズたちは顧客にサービスを提供する前に、徹底的に訓練されていました。ハーヴェイ・ガールズ・マニュアルなるテキストまで用意し、最高品質のサービスが提供できるよう彼女たちは細部に至るまで訓練を受けました。

http://library.nau.edu/speccoll/exhibits/fredharvey/themes/harveygirls.html
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