当サイトをご覧いただいているあなたは、きっと”普通のファッション情報”では満足できない、いわゆるファッションフリークのお一人なのではないかと勝手ながら推察致します。
そんなあなたであればおそらくご存知かもしれませんが、これまでよりもさらに注目を集めているアクセサリーの新しい流れがあります。それがメキシカンジュエリー(メキシコのシルバーアクセサリー)です。
今回は私も個人的に非常に注目している新しい潮流、メキシカンジュエリーについて、そしてさらにその歴史を変えた、一人の偉大な男の知られざる歴史について、迫っていきたいと思います。
メキシカンジュエリーの中心地”TAXCO(タスコ)”
メキシコの首都、メキシコシティから南西に約170kmほどのところに、観光客に人気の街、TAXCO(タスコ)はあります。
https://www.google.com/maps/place/
正式にはTaxco de Alarcón(タスコ・デ・アラルコン)と言いますが、ほとんどの場合、略された名称のタスコと呼ばれています。
この街は白く美しい建物が多くあることから、「白い街」とも呼ばれています。しかしタスコにはもう一つ違う通り名があります。それが通称「銀の街」。
Syced, CC0, via Wikimedia Commons
独特なデザイン性と大胆なラインで人気を集めるメキシカンジュエリーですが、なんとタスコには10,000人を超える銀細工職人が在籍していると言われるほど、メキシカンジュエリーの中心としても知られています。
それでは、タスコはどのようにして現在の地位を築いていったのでしょうか。
時は大航海時代の真っ只中、1528年へと遡ります。
実はこのころ、現在の「タスコ」として知られる先住民の集落は、現在の位置には存在していませんでした。
タスコが現在の位置に誕生したのは、世界各地で銀などの貴重品を追い求めていたスペインの征服者、エルナン・コルテスが、この地で銀が取れることに気づいたために作られたものだったのです。
その後1716年にこの地に降り立ったのが、のちの”銀山王”ホセ・デ・ラ・ボルダです。
彼はタスコ周辺の山々で豊富な銀が採掘できることを発見し、莫大な富を築きます。
その財産を基に、彼はタスコの街に道路や美しい家、そして1759年にはバロック建築の傑作とも評される、大聖堂サンタプリスカを寄進・建造させます。これが現在の美しい街タスコの礎となりました。
タスコの凋落
豊富な採掘資源を基に、急成長を遂げた街タスコですが、ここから大きく分けて二度の危機に瀕することになります。
まず一つが採掘資源の枯渇です。
当然ながら採掘し尽くされてしまえば、銀や銅、鉄などの採掘資源は枯渇していきます。銀が取れなくなってきた銀山にもはや価値はなく、それにより徐々にタスコの価値は凋落していきます。
そしてもう一つが、1910年ごろから始まったメキシコ革命による影響です。
Decena_trágica.JPG: Osuna Defensa.jpg: Ramos Casasola/Subido por User:Tatehuari el 29 de Diciembre de 2006 Insurrectos_&_their_women,_Mexico_(LOC).jpg: The Library of Congress Niño_Soldado.jpg: Subido por User:Tatehuari el 21 de Diciembre de 2006 Juarez,_Adobe_house_riddled_(LOC).jpg: The Library of Congress derivative work: r@ge, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
血で血を洗うような悲惨な革命となったこのメキシコ革命により、国内は大混乱に陥ります。
国内で流通しているペソは大暴落し、ほとんど価値を無くしてしまうほどでした。(幸か不幸か、メキシカンリング と言う新たなジュエリーが誕生したのも、このメキシコ革命が原因でした。詳しくはメキシカンリング の知られざる歴史をご覧ください。)
その影響はこのタスコにも及び、人々は貧困に喘ぐこととなってしまいました。
そんな時にこの地に降り立ったのが、今回ご紹介する”メキシカンジュエリーを変えた伝説の男”、William Spratling(ウィリアム・スプラットリング)でした。
メキシコシルバーを変えた伝説の男
ウィリアム・スプラットリングは1900年、ニューヨーク州のソニヤでてんかん学者の息子としてこの世に生を授かりました。
後に”1900年代のメキシカンジュエリー界にもっとも影響を与えた男”や、”メキシカンジュエリーの父”とも呼ばれることになるウィリアム・スプラットリングが、学生時代に学んでいたのは意外にも『建築学』でした。
彼はオーバーン大学で建築を学んだ後、ニューオーリンズのチューレーン大学で建築学部の助教授も務めました。
その後1926年から1928年の夏に、彼はサマースクールとしてメキシコ国立大学でスペイン植民地時代の建築について講義するために、度々メキシコを訪れるようになります。
彼はそこで、フアン・オゴーマン、フリーダ・カーロ、そしてメキシコ壁画運動でも知られるメキシコ随一の画家、ディエゴ・リベラと出会い、親交を深めていきます。
彼らとの出会い、革命という名の大きなうねりの中にあるメキシコ、タスコの凋落ぶり、さらにはメキシコでの暮らしを本にする依頼(後の1932年、”リトルメキシコ”の題で出版されます。彼の素晴らしき文学の才能を目の当たりにできる傑作です)を受けるというこれら様々なきっかけを基に、彼は1929年にタスコに家を買い、そこで暮らすことにしました。
(ちょうど彼がメキシコを訪れ始めた1920年代のメキシコは、まさに激しいメキシコ革命の真っ只中にあり、それに反応するように民族主義的な文化運動が非常に盛り上がった年代でもありました。
この頃に、メキシコの美術家たちはメキシコ壁画運動なるものを始めました。かなり乱暴に言えばこれは「ディアス政権や白人・海外資本に苦しめられている民衆よ、もう一度自分たち民族の素晴らしい歴史や文化を思い出し、立ち上がれ」というメッセージを込めた、激しい芸術運動となりました。これを契機に、メキシコの現代美術は大きく進歩することとなります。
English Wikipedia at the English-language Wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
もしかしたらウィリアム・スプラットリングも、彼らのこの激しい熱にあてられてタスコへ本格的に居を移すことにしたのかもしれません。)
メキシコシルバーの革命の始まり
話をタスコに戻します。
スペイン征服者たちにより、銀の産地として非常に人気を集め、”銀の街”とまで呼ばれるようになったタスコ。しかしこの時点でタスコは、あくまでも”銀の採掘地”としてしか認識されていませんでした。
メキシコ革命後、経済的・文化的にも疲弊している人々を目の当たりにし、ウィリアム・スプラットリングは「タスコの経済を良くし、民衆の心を芸術に向かわせてあげたい」と思うようになります。
そこで彼は、かつて繁栄していた銀鉱山を復活させ、販売用のシルバー製品をデザイン・生産する計画を思いつきました。これがメキシコシルバーの革命の始まりとも言えます。
前途多難な船出
タスコを銀細工で復活させたい。そんな彼の情熱は、当初地元の人々にはあまり受け入られていませんでした。
当時タスコではアクセサリーは金が主流であり、銀のアクセサリーを身に付けたいと考える人はあまり多くはいませんでした。
また、ウィリアム・スプラットリングは建築学は得意でしたが、シルバーアクセサリーを”デザイン”することはできても、”銀細工の技術”は持ち合わせていなかったため、『銀細工師』を集める必要があったのです。
まず彼は銀細工師集めに奔走します。タスコ唯一の銀細工師を尋ねると、彼はすでに齢80歳を超えておりほぼ盲目だったため、次にタスコの南にある街イグアラに向かいます。
成功の始まり
彼はイグアラで若く有能な金細工師を見つけ、早速様々なデザインの制作を依頼し、シルバーでの制作をし始めます。
彼のデザインの特徴は、彼が持つ豊富な建築的な要素(現代建築の幾何学的紋様の採用)、そして彼が常々興味を抱いていたスペイン征服前の”メソアメリカ芸術”を高いレベルで融合することでした。
https://www.amazon.co.jp/William-Spratling-His-Life-Art-ebook/dp/B07DM4WW3B/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=william+spratling&qid=1578458409&sr=8-1
さらに彼は高品質なシルバーや、様々な宝石類、貝、木材などの素材にも並々ならぬこだわりを持ち、シルバーと木材を組み合わせる珍しいマリアージュの使い手としても知られています。
彼が初めて工房(生産工場)を開いたのが1931年のことで、彼のデザインする素晴らしい作品たちはたちまち観光客の人気を呼び、着実に成功を積み重ねていきます。
1934年にはかの有名な工房、Taller de las Delicias(タラデラデリシアス)へ拠点を移し、この頃には銀細工のみならず家具や製織にまで手を広げていました。
ちょうどメキシコシティからタスコまでの道路が1927年に開通したことも功を奏し、都市部から噂を聞きつけた観光客が大挙して押し寄せ、彼らの素晴らしい作品の数々は瞬く間に売れていきました。
https://www.amazon.co.jp/William-Spratling-Mexican-Silver-Renaissance/dp/0810990741
その成功ぶりを表す一つの指標として、1940年以降には彼の工房では約120-300人ほどの職人が雇われていたことからも、彼の工房がいかに成功したかがお分かりいただけるかと思います。
また、彼は職人を育てる独自のシステムも開発し、それにより多くの腕のいい職人が育ち、のちに各々が自分の工房を開きました。これこそが、現在のタスコが単なる銀の産地としてではなく、メキシカンジュエリーで有名になった主な要因となりました。
そして彼のデザインは故郷のアメリカでも人気を呼び、博物館でも展示されただけではなく、なんとあのニーマンマーカスやサックスフィフスアベニューなどの名だたる高級百貨店でも取り扱われるほどに、高い評価を受けました。
Saks Inc., Public domain, via Wikimedia Commons
このまま彼のブランドは不動の地位を築き続けるのかと思いきや、徐々に雲行きは怪しくなります。
模造品の氾濫
有名なブランドにはつきものと言えるのが、模造品の氾濫です。飛ぶように売れる彼のブランドの作品を模造し、販売する人々が現れました。
彼が新しい作品を世に発表するたび、少なくとも1ヶ月もかからないほどでほぼ同じ見た目の模造品が、市場に出回ることになってしまいました。
当初は彼の「銀産地の銀を使ってシルバーアクセサリーを作る」という情熱に賛同する人は、限りなく少ないものでした。しかし一旦人気が出れば掌を返してコピー品を制作する。なんとも悲しい出来事だったのです。
真珠湾攻撃・第二次世界大戦
しかしある出来事によって、彼の工房は一時期さらなる人気を集めることとなります。その出来事こそ、真珠湾攻撃そして第二次世界大戦の到来でした。
Bundesarchiv, Bild 146-1976-071-36 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons
アメリカ国内の高級百貨店、ニーマンマーカスやサックスフィフスアベニューなどは、当時仕入れの多くをヨーロッパから行っていました。しかし戦争によってこれまでのように気軽にバイヤーたちが各地を巡ることは困難となってしまい、新たな仕入れ先を探す必要に駆られます。
そこで白羽の矢が立ったのが、彼の工房のあるメキシコだったのです。
これまでよりもさらに熱の入った買い付けを受け、彼の工房は外部資本を受けつつも職人を400人-500人にまで増やし、万全の生産体制でこれに応えました。
しかしこの盛況ぶりに目をつけたメキシコ政府が、彼の作品の輸出に対して多額の関税をかけたために、戦争が終わるとほとんどのバイヤーたちはこれまで通りヨーロッパからの仕入れに戻してしまいます。
不幸はさらに続くもので、海外の外部資本を受けた彼の工房は、1945年6月30日、株式の過半数を投資家であるラッセル・マグワイアに売却されてしまい、それにより最終的には工房を閉めることになってしまうのでした。
彼はその後、購入していたTaxco-el-Viejo(タスコ・エル・ビエホ)の牧場に移っています。
新たな地、アラスカ
時代の荒波に飲み込まれ、自分が全てを注いできた工房を閉めることとなってしまったウィリアム・スプラットリング。しかし落胆する彼を世界は放ってはおきませんでした
彼の友人であったアラスカ準州知事アーネスト・グルーイングらは、彼がメキシコで成し遂げた成功をアラスカにももたらして欲しいと依頼されました。これをウィリアム・スプラットリングは快く受け、早速アラスカへ向かう飛行機に乗り込みました。
彼はそこでアラスカが長い冬の間、満足な収入を得られていない現状を目の当たりにします。そしてメキシコで彼が行ったように、彼はまずアラスカやその周辺の歴史・文化・素材などについて研究を初め、最終的に200ものモデルを制作します。
さらにアラスカから何人かをタスコの自らの牧場に招き、メキシコ人から銀細工の手法を学ばせます。その後もアラスカ各地に工房を設置することを提案したり、実際に制作した作品を現地で販売しようとしますが、結局は議会からの十分な資金提供を受けられず、この計画は頓挫することとなります。
晩年
彼は晩年、メキシコ・そしてアラスカでの制作活動の経験を基に、精力的に作品を制作しました。
その後、経済的・文化的・芸術的にもメキシコに多大な影響を与えてくれたウィリアム・スプラットリングは、1967年8月7日に交通事故により、66歳の生涯を終えます。
彼はもうこの世にはいませんが、彼がタスコ、メキシコ、そして世界に残してくれたものは決して少なくありません。
彼らのルーツとなる芸術を現代に呼び起こし、経済的に自立できるような仕事を創生し、そして今や10,000人以上もいる銀細工師たちは、遡ればみな彼の子弟であると言えます。
あまり日本では知られてはいませんが、彼の作品はいまだにアメリカ・ヨーロッパなどではかなりの高値で取引されており、その人気の高さがうかがえます。
大胆で洗練されていながらも、どこか民族的・人間味を感じさせてくれるメキシコシルバーアクセサリーは、今でも人々の(そして私の)心を惹きつけてやまないのです。
Country Gentleman
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