ヴィンテージアクセサリー。
この言葉の響きを耳にするたび、心が躍る自分に気がつきます。
ヴィンテージの銀食器を使用したスプーンリングや、ヴィンテージのテキスタイルを使用したボロネッカチーフ、ヴィンテージプラスチックから制作したバッテリーバードなど、
これまでカントリージェントルマンでは様々なスタイルのヴィンテージアクセサリーを生み出してきました。
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また同時に、それらが持つ歴史をリスペクトしながら皆様へご紹介するべく、ブログの執筆も続いています。
(うちいくつかの記事の内容は、幾人かの方のサイト上に許可なくコピーされ、さらにいくつかはこちらが意図しない内容へ改変されてさえいることを、とても残念に思います。
ぜひ一度、ご自分で歴史を掘り起こすという大変かつ非常に興味深い作業を楽しんでみていただければと切に願います。)
そんな中で、今ここで改めて”ヴィンテージアクセサリー”というものが持つ意味や、それが及ぼす影響、そしてその周辺の状況などについて自分なりに深く考えてみたいという思うに至り、今この記事を執筆しています。
※初めにお断りしておきたいこととしまして、本記事はあくまでも私の個人的な主観、そして価値観を元に執筆したものであり、それを読者の皆様へ強要する意図は一切ないことをお伝えしておきたいと思います。
「ファッションとは自分が正解と思えばそれが正解である」という考えを基に、お話しさせていただきます
それでは、ヴィンテージアクセサリーを巡る思考の旅をはじめてまいります。
ヴィンテージアクセサリーとは
これは乱暴かつ極端な表現かもしれませんが、「ヴィンテージアクセサリーとは”古いアクセサリー”である」という一つの表現に対して、反対される方はおそらくほとんどいないのではないかと思います。
実際のところ、私もそのように認識してもいます。
しかしヴィンテージアクセサリーは、それを持つ人によって大きく意味合いが異なる場合が往々にしてあります。
ヴィンテージアクセサリーとは究極の自己満足
ハイファッションブランドなどでは毎年全く新たな視点から、新たなトレンドを作り出すべく大量の新作が発表されます。
その世界観を基にして、世界のファッショントレンドは回り続けています。
また、ファッションの世界からは離れますが自らの命を顧みず地動説を提言したコペルニクスや、自分のクリエイティビティを現実へと具現化させたウォルト・ディズニーなど、
過去の偉人たちが歩んできた足跡を辿るたび、何かを”生み出す”ことはとても大変なことであると再認識させられます。
自分がイメージする新しい世界を作り上げることは非常に困難であり、その途上ではいくつもの批判や挫折があります。
そんな苦難に屈することなく、決して自らの歩みを止めないデザイナーや、クリエイターたちを私は心から尊敬しています。
そして近年はそんなクリエイターが生み出す新たな潮流のことを、”トレンド”として表現されるようになりました。
しかしヴィンテージアクセサリーはいわばそのような”トレンド”とは真逆の世界にカテゴライズされます。
もちろん一時期非常に流行し、現在でも根強い人気を誇るネイティブアメリカンのシルバーアクセサリーのように、特定のヴィンテージアクセサリーがスポットライトを浴びることもありますが、
それはあくまでも稀なケースと言えます。
また近年ではスプーンリングやシグネットリングなども徐々に市民権を得てきていますが、全体からすればそれらは未だ少数派にすぎません。
ヴィンテージアクセサリーは、今から数十年・時には数百年前に制作されたもののため、当然ながら現代のトレンドと完璧に合致することは非常に稀です。
このように、トレンドとは無縁の”時の静寂”の中にあって、なおかつ輝きを失わないヴィンテージアクセサリーに対して、
その限りない愛情を向ける人々がいることを、私はとても嬉しく、勝手ながら親近感を覚えてさえいます。
一消費者として誤解を恐れずに言うならば、トレンドを追い続けることは大変ではありますが逆にそれはとても楽なことでもあります。
ハイファッションブランドが提示する全く新たな世界観。つまりトレンドを追い続けてさえいれば、時流に乗り遅れることもなく大手を振って街に飛び出すことができます。
しかしトレンドとは全く異なる時間軸で存在するヴィンテージアクセサリーなるものを身につけるためには、そのアクセサリーを愛する自分の心や価値観を、どこかのタイミングで必ず確かめる必要があるように思うのです。
自分が愛するものを「これは良い」と自分で認めることができるかどうか。
その点から言って、ヴィンテージアクセサリーとはある種究極の自己満足であると私は感じています。
(「小難しい話ばかりしているな」、「ファッションはもっと自由に何も考えずに楽しめばいいんだ!」というお声も聞こえてきそうですが、もちろん全てはあなたの価値観次第です。)
ヴィンテージアクセサリー×タイムトラベル
私の大好きな映画の一つに、「バックトゥザフューチャー」があります。
”時を超える”という斬新な設定と、80年代のパワフルでエネルギッシュな空気がそこかしこに満ち溢れた世界観は、初めて見た頃から1ミリも色褪せることなく、未だに私の心の中でいつも輝きを放ち続けています。
”時を超える”ことは現代の最先端の科学技術を持ってしても成し遂げられてはいませんが、私は”ヴィンテージアクセサリー”こそが、現代における唯一の時を超えるためのアイテムであると信じています。
ここで一つ質問をさせていただきたいのですが、
皆さんは日々の生活の中で「今から100年前の人々」の人生について考えたことはあるでしょうか。
どんな時代で、どんな生活をして、どんな出来事があったのか。
もちろん先に述べたような”映画”などを通して、はるか昔の世界を疑似体験することは可能です。
しかしそのはるか昔の時代のものを実際に手に触れて感じた時の、あのえも言えぬ不思議な感覚はヴィンテージアクセサリーだからこそ成し得る、一種のタイムトラベルのようにも感じています。
スプーンリングであれ、フォークバングルであれ、その銀食器を100年以上も前に実際に使っていた人たちがいた。
世界恐慌から生まれたバッテリーバードや、メキシコ革命から生まれたメキシカンリングのように、苦しみの中で生み出されたアクセサリーがあった。
それらヴィンテージアクセサリーは、それぞれが異なるストーリーを背景に抱いています。
その歴史を紐解く度に、私はその時代にタイムトラベルをしたような不思議で、なおかつ胸が躍るような感覚を覚えるのです。
ヴィンテージアクセサリーは性別を超える
私個人としても、そして当ブランドとしても決して変えることのない一つの指針があります。
それは「性別・人種、その他いかなる理由においても人を差別しない」というものです。
以前執筆した「女性ファッション100年の闘争<職場メガネ禁止・パンプス強制から>」という記事でも言及していますが、女性は現代においても未だ男性に比べ多くの面で制限を強いられています。
私自身さまざまな性的指向を持つ友人たちがおり、彼らと話す中で自分がまだ知らなかった価値観や考え方を少しずつではありますが学ばせてもらっています。
15世紀頃の価値観のように、性別や人種によって何かを制限するという価値観には、私は全く賛同はできません。
例えば、シグネットリングというヴィンテージアクセサリーは、元々は男性が多く身につけるものとしてその歴史が始まりました。
ですが、だからと言って今日女性がそれを身につけてはいけないということは一切ありません。
事実、歴史上では女王がシグネットリングを身につけていた例もいくつもあります。
むしろ、歴史上は男性が身につけることが多かったヴィンテージアクセサリーだからこそ、それを女性やその他性的指向を持つ方が身につける事によって、
「性別や性的指向の違いによる厳しい抑圧・制限と戦い続け、自由を勝ち取ってきた人々のある種の”勲章”」という意味合いさえ、生まれてくると思うのです。
私は歴史に埋もれかけていた素晴らしい文化や歴史を、その埃を振り払いながら少しずつ掘り起こす作業をとても楽しく感じています。
そして、これまでそのような知られざる歴史をご紹介してきたわけですが、そこに歴史や史実の通りの身につけ方・捉え方を押し付けたいというような意図を含めたことはただの一度としてありません。
(稀に誤解をされる方がいらっしゃいますが、私が行いたいことはあくまでもそのモノが持つ背景やストーリーをご紹介することただ一つです。決してその歴史を「踏襲しなければならない」と強制をするものではないということを、あらかじめお含みおきいただければ幸いです。)
事実、先日発表したヴィンテージボロネッカチーフは日本の襤褸(ボロ)と、アメリカのヴィンテージテキスタイル(バンダナ・フラワーサック)を一つに組み合わせることで作り上げました。
これは歴史を単一的にしか捉えられていなければ、決して生み出すことはできなかっただろうと思います。
現代においても続く、吐き気を覚えるような酷い差別には辟易しますが、それでも時代が前へと進むたびに徐々にではありますが、そのような制限が少しずつ取り払われてきていること自体はとても嬉しく思っています。
(最近「コンピュータの父」と呼ばれることもあるアラン・チューリング氏の生涯を取り上げた映画を鑑賞したのですが、20世紀においてなお「性的指向が違うから」「女性だから」などといった
無知で寛容性も一切ない差別が当然の如く行われていた歴史を知り、自分が知らないことに対してそれを受け入れるための努力を何もせず、それどころか抑圧しようとさえするような浅薄な人間には、決してなりたくないと改めて感じました。)
受け継がれるヴィンテージアクセサリー
私たちがヴィンテージアクセサリーを手にする時、それを初めて手に取ったのは自分ではないことに気がつきます。
どんなヴィンテージアクセサリーも、初めてそれを購入した人がいて、さらにはそれが受け継がれてきてはじめて、現代の私たちの手元や首元を飾ることができます。
もしそのアクセサリーがその身に刻んできた長い歴史のどこかで、その時代の持ち主に「価値がない」として捨てられてしまっていたとしたら、
そのヴィンテージアクセサリーがあなたの手元に届くことは決してなかったはずです。
”時の篩”という言葉があります。
篩(ふるい)とは「ふるいにかける」などで使われる言葉ですが、”時の篩”とは「本当に貴重なもの、価値のあるものは時を経ても残り続ける」という意味を表しています。
例えば、人類がこれまでに生み出してきた本の数はもはや数え切れないほどですが、そのほとんどが時の流れの中で忘れ去られていきます。
しかし同時に、二千年以上も前から読み継がれる「論語」や「聖書」など、本当に価値のあるものは時を経ても読み継がれ続ける、といったところでしょうか。
この”時の篩”をヴィンテージアクセサリーに当てはめた時、(これが適切な例えかは疑問ですが)私は”引っ越し”を思い出します。
ある日、引っ越しの準備中に私は持っていた数十点を超える沢山のアクセサリーに目を向けました。
「本当に要るものだけ持っていこう」とその中から私が選び出したのは、わずか数点だけでした。
セドナで購入したヴィンテージのネイティブアメリカンジュエリー、ブルックリンのフリーマーケットで見つけた真鍮製のヴィンテージブローチなど、気がつくとヴィンテージのものばかりが手元に残りました。
反対に、ファストファッションブランドで購入したような安価なアクセサリーは、気がつけばほとんどがリサイクルショップ行きとなってしまっていました。
おそらくその頃に「なぜそれを残したの?」と聞かれても、「なんとなく好きだから」としか答えられなかったと思いますが、今思えばそれこそが”時の篩”の一つの過程だったのかもしれないと気づきます。
ヴィンテージアクセサリーが持つ本当の魅力を言語化するということは、とても困難な作業です。
それは決まりきった魅力があるわけではなく、持ち主によって魅力を感じるポイントが違うためであるとも思います。
そんなヴィンテージアクセサリーが持つ”特別な魅力”こそが、私たちにそれを受け継がせ続けているのかもしれません。
生産と破壊
私が最近耳にした言葉で、”生産とは破壊である”というものがあります。
これは極端な例かもしれませんが、GDPが著しく上昇するのは”恐慌”や”戦争”という、いわば最も大きな”破壊”の後であることがほとんどだそうです。
また、言ってみれば私たちの食事でさえ、他の生物の命を”破壊”することで成り立ってもいます。
そして、ファッションの世界でも”破壊”は行われています。
例えばジーンズ一本を生産するために必要となる水の量は約7,500リットルとも言われており、これは平均的な人が7年かけて飲む水の量に相当するとされています。(国際連合広報センターの記事より)
世界的なジーンズブランドLevi'sではこの点に着目し、ジーンズの生産に使用する水の量を減らす製法を作り出し、これまでに30億リットルもの水の使用を削減しています。
環境に配慮したものづくりではPatagoniaなども有名ですが、今後もこのようなムーブメントは続いていくであろうと思われます。
「サステイナブル(持続可能)な世界を構築するべし。」と、近年では環境に配慮したモノづくりが声高に叫ばれています。
当然ながら、私も環境に配慮したモノづくりには心から賛同しますし、全てのものは有限であり、それらに配慮したモノづくりを行う事に異論を挟む余地など一切ありません。
しかし、同時に「環境に”配慮”することはできても結局のところは”破壊を止める”ことにはならない」とも感じているのもまた事実です。
これから何かを新しく生み出そうとする際には、必ずなんらかの”破壊”のプロセスを経ることでしか、”生産”をすることは決してできないからです。
ここが、私たちのようなモノづくりをする人間にとって深い悩みの一つでもあります。
”受け継ぐ”というサステナビリティ
ヴィンテージアクセサリーは、長い歴史の中で何人もの持ち主の変遷を経て、我々の下へと辿り着きます。
それはつまり”受け継ぐ”という一つのムーブメントが、ヴィンテージアクセサリーの要素の一つとして含まれている事になります。
私はこれを、サステナビリティという考え方に対する答えのうちの一つでもあると考えています。
一過性のトレンドの為だけに生み出され、模倣された作品は過剰なまでに生産され、そして消費されていきます。
大量生産により生産コストは著しく低下し、その分多くの商品を市場へと投下することができるようになりました。つまりは大量生産・大量消費のスタイルです。
しかしながら昨今のファストファッションブランドの苦境は、我々消費者が少しずつではあるものの、そのような刹那的な消費スタイルが抱えるある種の虚しさのようなものに、気づき始めてきている証拠なのではないでしょうか。
祖父から父、父から子、子から孫へと代々受け継がれているシグネットリングや、
初めはツーリストジャンクとしての位置に甘んじながらも、現代ではその希少価値や背景の魅力から価格が高騰しているバッテリーバードなど、
受け継がれてきたからこそ得られる独特な魅力、そしてそのモノが持つ価値は、ヴィンテージアクセサリーを愛する者にとっては何よりもかけがえのないものとなります。
であればこそ、私たち愛好家はそのモノに対して深い愛着を抱き、それを大切に扱い、時にはその背景に対するリスペクトさえもそのモノに対して込めながら、ヴィンテージアクセサリーを愛でます。
そこには新たに何かを破壊する必要は全くなく、ただただ淡々と受け継がれていくのみです。
話は少し逸れますが、2004年にノーベル平和賞を受賞したケニア出身の女性ワンガリ・マータイ氏の「MOTTAINAI」は皆さんも一度は耳にしたことがあるかと思いますが、
これは彼女が来日した際に、日本の「もったいない」という考え方に感銘を受けて提言したものでした。
しかしながら、この「もったいない」を世界に発信してくれたのは、日本人ではなくケニア出身の素敵な女性でした。
私は決して彼女に対する不平不満を言いたいわけではなく(むしろその考えを世界へ広めていただいたことに対して深く感謝しています)、この素晴らしい理念・考え方がどうして日本から世界へと発信できなかったのかを悔しく、そして寂しく思うのです。
もちろん、「そんなことは自分たちにとって当たり前だから、今更大声で叫ぶようなことではない」というご意見もごもっともですが、
もしかすれば、我々日本人は大量生産・大量消費というスタイルを、あまりにも無配慮のうちに受け入れすぎてしまったのもその要因の一つなのではないか、と思っています。
ここで今一度”モノ”に対する捉え方を考え直し、本当に自分に必要なものは何なのか。後世まで受け継ぐことができるモノとは一体何なのか。
そのような点について考えるべき時代に、我々は生きているのではないかと感じています。
終わりに
気がつけば意図せず7千文字を超える記事となってしまいましたが、これにてヴィンテージアクセサリーをめぐる思考の旅は終わりとなります。
これらはあくまでも私の価値観であり、それをいかなる方へも強制すると言う意図は一切ないことを、改めてここでお伝えしておきます。
さらに言えば、書きたいことを書きたいように書いてしまったため、かなり煩雑かつある種壮大すぎる表現となった部分も多々ありますが、小者の大言壮語のようなものとして、皆様にはうまく受け流していただければ幸いです。
しかしながら、もし少しでもあなたの心の中のどこかに、私と共通している考えや意見があったならとても嬉しく思います。
これからもカントリージェントルマンは、自らの価値観・スタイルにおいて自信を持ってお届けできるアクセサリーを制作してまいります。
もしその中にあなたの心の琴線に触れる作品があったならば、それほど光栄なことはありません。
日本という小さな島国の、さらには田舎に住む一人の人間として。
そしてプリンシプルを貫く勇気もない人間だからこそ、プリンシプルという考え方を通じて成長したいと願う一人の男として。
Country Gentleman
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